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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

▼蕁麻疹が消えた。


予防医学のカイロプラクティック

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蕁麻疹が消えた

学校を卒業し,

とある自転車会社に入って、半年が過ぎていました。

しかし, 社会生活は ある一面を除いて、私には とても苦痛でした。

というのも、
当時私はお酒を飲むと,すぐ体全身に蕁麻疹が出てきてしまい,痒くて腫れてしまい、とても眠れるものではありませんでした。


その症状は凄まじいもので,
ほんの少しでもアルコールを口にするだけで、体中に発疹が出て火照り、あまりにも痒く その結果掻き過ぎ、擦り剥いた皮膚の傷口から 血液が滲み出てきてしまう位でした。

イヤーーー!!! ダダダッε=ε=εε=ε=ε=( ┯_┯)


だから 寝てしまえば大丈夫だと思い,何時もすぐに寝ようとするのですが,体が寝付く頃になると 体が温くなって また痒くなる。

これの繰り返しばかりをしていたのでした。

しかし この原因は,心の中に 大きな問題があったからでした。

それは営業の仕事をする以上,「 酒を飲まなければならない 」,という思い込みでした。
それに、お酒を飲んだら、肝臓が強くなるという情報を聞いていたので、酒を飲んで 肝臓を強くして、この蕁麻疹を無くすことが出来るだろう、という曖昧な考えを持っていたのも事実ですね。


しかし実際,当時の営業は,酒の席を設ける事も大切な仕事でもありました。

それだけに 私は「 酒を飲める体を 作らなければならない 」と,自分なりの理論を形成しました。

当時会社は 大阪の阪急十三(じゅうそう)に支店があり,私はその二階の寮に生活をしていたので,その目標を達成するために,毎日歓楽街に出掛け,給料がお酒に代わるくらい 飲み続けました。

飲んだお酒の種類は、ジン が中心でした。
ジンを ライム にしたり ジンフィーズ にしたりして飲んでいました。大体一回行くと、ボトルの三分の一から、半分まで飲んでしまいました。
かなり度数のきつい酒ですから、無茶をしていたのは 言うまでもありませんね。

しかし 一向に酒に強くなるという変化は起こらず,相変わらず体を掻きむしりながら出社し,酒くさい匂いで仕事をしているという有様でした。

今だったらとてもお客さんに対して 失礼なことをしていたと思います。

でもこの時は、まったくそのような 失礼だという思いがなかったのも事実です。


このような状態を半年間続けましたが,半年で会社の個人営業の成績を総なめにし( もちろん自分だけの力ではありませんでしたが ) 営業に関する賞を 全部取ってしまいました。

この営業成績を見込まれ、四国の営業担当になってしまったのでした。

これは 四国地方の大手の問屋さん回りになったという事を意味します。

本来これは 係長にその仕事が回ってくるものです。
ということは 係長を差し置いて 私が担当になったという事を意味します。

何も判らない私は、その意味の重要性が理解できていませんでした。
そしてその後 どうなって行くのかも 判断が出来ませんでした。
でもこの人事は 支店長が決めたことだから 仕方が無いか・・・

ところで 本当に恐れを知らないのは 困ったもんで,この大役に対して 何とかなるだろうと思ったのですが,全くそんな事は無かったですねぇ。

しかし自分では頑張ったんですけど、ちょうど第一次石油ショックに当たってしまい,この時の成績は散々でした。
在庫を持ち過ぎて、その在庫が売れないもんだから どの商店も新しく購入してくれまシェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェーーーーーーーーヽ( ̄▽ ̄*丿 ン。

また私の直属の上司も 人間性は良い人なんですけど,全て自分で仕切らないと気が済まない係長だったので,全く私に仕事を( 結果的に )与えない人だったし、仕事の話し合いは 未だに不思議だと思うけれど、全く無かったのでした。(¬¬)ホント????? ホントダヨ!!!

仕事先の会社には、その係長が私に断りなしに、勝手に話を進めているんですから、何が起こっているのか分からないという状況でした。
私の頭上を 上司と先方さんとが会話しているホットラインが 在るような感じだったですね。

そして普通だったら、営業会議をするのが普通でしょうが、その様な行動をしたのは 一度も経験していないので、本当に可笑しな話でした。

今だったらこんな会社経営はしないでしょうねえ。
こんな経営をしていたら、会社の目標なんかは出てきませんしね。
やはり現在この会社は、殆ど名前だけが残っている 弱小会社になってしまっていました。

だからこの仕事をしていて 「 一体私は何をしたら 良いんだろ? 」という気持ちになったのは 当然のように起こりました。
  ただ単に四国に行っているだけ、という格好になっていました。
本当に 詰まらなかったですね。 哀しかったですね。

その結果,私はノイローゼ寸前になってしまいました。
実際には もうすでに成っていたんだろうと思います。


このような事もあって、余計に 酒の量は多くなってしまっていました。

気持ちが すさんでいたんだろうと思います。

あるとき、何時もながらパブで飲んで帰ろうとして,レジの所に行くまでに,少しふら付く位に辛どかったことがありました。

その時に,『 仕事がしんどいなー 』と,心につぶやいた時でした。

その呟いた瞬間に、何故か 父親のことを無意識的に思ったのでした。


「 私は あの厳しい父親に 育てられた。 でも父は 私たち子供を 四人も育ててくれた。 」

「 お父さんは 本当に しんどかったんだろうなー。 本当に申し訳ないなー 」
そう思い レジで料金を支払って そのまま寮に帰り,すぐに寝付いてしまいました。

そして翌日,いつもながら 出社する時間がやって来ました。

朝にトイレへ行く。 いつもの時間割でした。 

でも?

へ? え?! あれ?! どうしたんだろう?????
( ̄ー ̄?).....??アレ??


そう 気が付いたんです。 いつもの不快感が 全く無くなってしまっていたんです。

まったく 痒くなかったんです。 ヘェ??????

そして,赤く腫れ上がる体じゃなくなっていたんです!!!! ヤッターーーーッ


この日を境にして,私の蕁麻疹は 全く消えて無くなりました。

今では お酒をいくら飲んでも,蕁麻疹は出てこなくなりました。


今この件で思う事があります。

それは「 父親に感謝する 」事が初めてであったからだと。

父を許したこと。

そう私は生意気にも、「 許す 」ということは 言える立場では無いのですが,父を忌み嫌っていた事があったのも 事実だったからです。

…なぜそうなったのか というと、
私が幼い頃から父は酒を飲むと、人が変わったかのように 小言を言う人に変化して行きました。 その姿を 見続けていたのです。
そして 自分の苦労話を続ける人に 変化して行くのです。
その姿がとても嫌だったのです。
子供にすれば父親の姿が怖くなるのは、この様なときだと思うのです。

でも父への嫌な思いが その時点を境にして、完全に無くなっていました。

それどころか,父が尊敬できる存在・人になっていたのです。


こんな辛どい社会生活を通じて,父は人一倍頑張って,生きて来られた。

明治時代に生まれ,大正,昭和,平成を生き続けて来られた。

第二次大戦も経験し,生きて帰って来られた。


それだけでも尊敬に値する。それに比べて私は 何も出来ていない。

まったく何も出来ていない、クソ生意気な人間でしかなかったのです。
(-_-;)ホント


本当に、心の思い方一つで,このように 体も変化して行く事 が,この時の事件で少しだけ判りました。

この事件が在ったからこそ,自分の人生を変える序章が 始まったんだと思っています。


まだこの頃は『 心という存在 』 に気が付いていませんでした。

でも「 感謝をする意味 」が少し 理解できた記念すべき環境でした。

今では父母を心から尊敬し,心底から感謝しています。
有難う御座いました。
感謝の念以外の思いは 心の中には存在していません。


それだけに ただ一つだけ、大きな心の悔いが今でもあります。

それは両親が生きているあいだに、私は何の親孝行もしてこなかった事です

やはり親に孝行するのは 子供として当然の義務(強制ではないが)だと思います

そして 権利義務感から離れ、それが当然として生きれなかった事。

この悔やみは 一生続くでしょうし、また生まれ代わった時に、親孝行を実践しようと思う心で 生きて行きたいです


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